息衝く
 寝所に伏せる女のかたわら、今剣は難しい顔をして座っている。
 盛夏の日差しが障子越しにこの部屋にも注がれ、室内は十分に明るい。しかし昼下がりのまだ明るい時刻にもかかわらず、不思議と蝉の声すら聞こえない、静かな日だった。
 そんな日和の中、布団に横たわったまま目を伏せた女は動かず、穏やかな呼吸を繰り返していた。
「あるじさま」
 放たれた声が静かな部屋に沈殿していくように溶けた。そして次の瞬間、まだ若いその女がゆっくりと瞼を持ち上げて、まどろむ瞳でそばに侍る彼を見る。あら。僅かに驚いてそんなことを冗談めかして言いそうなほど、穏やかな顔をしている。
 まだ少しゆめうつつのようなぼんやりとした様子で、それでもしっかりと言葉を発した。
「ついていてくれたの?」
「あるじさま、だいじょうぶですか?」
「ええ。最近暑くてだめねえ」
 からからと声をあげて笑う主のそばで、今剣はやはり難しい顔をしている。それに気付いてどうしたの、と問い掛ける唇は白く、掛け布団から伸びた腕も白く細い。まだ老齢には程遠い女のはずが、やつれていることは明白だった。
 その痩せて骨ばった手が、今剣の暗い表情に触れる。柔らかな頬は、女のものとは比べ物にならないほど生気に満ちている。
「心配かけてごめんなさい。もう平気よ」
「……あるじさま」
 呼びかけに答えるように、横になったまま首を傾げるように動かした主君に対して、惑ったように眉尻が下がった。言葉が縺れて喉の奥で絡まるようだ。なにかがつかえているみたい。
 病床の主君はこの上ないほどに弱々しく、無駄に会話をさせることさえ憚られるような気がした。しかし、衰弱していっても気質は一向に変わらず、それがいっそう以前の健康的な姿を思い起こさせて、頭の中で組み立てたはずの言葉が消えていく。
 そして言葉が出てこない代わりに、昔のことを思い出す。ずっとずっと昔のこと、それから人の身となって、彼女と交わした言葉のことを。





 あれはもう何年も何十年も、何百年も前の話。自分が守り刀であった偉大な人の最期の瞬間を、今剣はよく覚えている。これから先も忘れることはないだろう。思い出せ、と言われなくとも思い出せる。今になっても、克明に覚えている。それほどの人で、それほどのことだった。
 ふいに、それらを強く思い出すことがある。普段は忘れているわけではないけれど、ふとした瞬間に記憶が蘇る。それは夢の中であったり、出陣準備中であったり、遠征先であったりさまざまだった。
 その日、今剣は縁側で庭を眺めてぼんやりしていた。まだ春の兆しが少しずつ見え始めただけで、冬の寒さも残る晩冬だった。
 ぼんやり庭を眺めて、昔のことを思い出していた。思い出したきっかけもわからないが、ただなんとなく、誰かと一緒にいる気にもならなかった。
「あら、どうしたの?」
 その日も主はいつもと変わらない調子で、脚をぶらつかせ庭を眺める今剣に尋ねた。血色のよい唇が、寒さの中でもはっきりとわかった。
「なんでもないですよ」
「なんでもないのなら中に入らない? 寒いでしょう」
「……」
「今剣?」
 声に反応して逸らした視線を、今剣は再び庭へ向ける。少し前までここも白い雪に覆われていた。それが今では春の息吹も時折見え隠れして、たまに池に薄氷が張ることはあっても、季節はこの瞬間にも春へ向かっていた。
「もう春も近いのね」
 今剣に答える様子がないことを悟ったのか、のどかな言葉が落とされる。妙に静かだ。ほかの刀剣たちだっているはずなのに、本当に静かな冬の終わりだった。
 隣に腰を下ろす気配を感じ取り、再び主君へと今剣は視線を向けた。審神者は刀剣たちと友人のように接したわけでもなければ、あくまで主とそれに仕える身という第一前提が越えられることはなかったが、だからこそ告げられることもある、と、そのとき今剣は思った。反対のことも、言う必要のないことも、当然それなりには胸の内にあったけれど。
「あるじさま」
「なあに?」
「ひとはなぜしんでしまうのですか?」

 あのとき、あるじはなんとこたえたのだっけ。





「今剣?」
 はっとして顔を上げると、目前にはやつれた今の主が横たわっている。頭の中はすぐに現在へ戻った。
 かつての主は病に伏せっていたわけではなかったけれど、今の主は最期のときによく似ている。状況や原因ではなくて、纏う空気が明確に死に近いと感じさせる。そこまで思いかけて、すぐに頭を振り思考を飛ばした。そんなことは考えるものじゃない、と自分でもよくわかっている。
 どうしたの、とあのとき縁側でかけられたのと同じように問われて、今剣は先程自分の頬に触れていた細い手を取る。骨ばった手は冷たく、そして頼りなげだった。
「またほそくなりました」
「そう?」
「あるじさま」
「なあに」
「あるじさまはいなくなってしまうのですか?」
 そんなことを聞いて、もう長くないのだと認められることの怖ろしさはいつだって背後に忍び寄っている。
 返答を怖れるように項垂れた今剣を、女は少なからず驚きを抱いた目で見ていた。初めて核心を突かれた、と、まるでそんなことを思っているように。
 長い沈黙があった。視線を落とし静寂を厭うように畳をなぞる今剣の指先だけが、はっきりと動く唯一のものだった。


「ええ」
 長い長い、ながい沈黙だった。
 それが途切れ、無意味に畳に触れていた指の動きが止まっても、今剣が顔を上げることはない。
「あなたたちのことは、ちゃんと政府にお願いしてます。だから心配ないよ」
「そうじゃないんです」
 見当はずれなことを言う主に向かって、今剣は否定の言葉を投げた。
 そうじゃない。そんなことを気に病んでいるわけではない。そんなことは、今はどうだっていい。
 今剣が首を擡げて、深い緋のひとみが女を射抜く。視界が霞むように思えるのはなぜだろうか。そんなことを、彼はぼんやりと考える。
「しにたくないのに、なぜしななければならないの?」
 果たしてそれは、目の前の主に尋ねたものだったのか。
 彼女は横になったまま、その中で息を呑んだような気配があった。それから少し迷って、「そうねえ」と、悩んでいた。
 仕方のないことはいくらでもあった。情勢、立場、時代の流れ、それから病。どうにもならないことがある。尋ねても、誰一人答えられない。いや、答えられないでいてほしい。そんな問いに明確な答えを返されては、そちらのほうがよほどつらい。ほしい回答すらないような問いだ。
「今剣は難しいことを聞くのね。でもあなたたちだって、嫌だけどしなければならないことはあるでしょう?」
 どうしようもない。どうしようもない自分を見ていると、どうしようもなかった自分をいやでも思い出す。それがいちばんに苦しい。なによりも悲しい。
 ――いやです。
 小さな声が、それでもはっきりと、言葉となった。
 いやです。あるじさまがいなくなるのはいやです。さみしいのはいやです。どうしようもないのはいやです。
 縋る思いがたった四文字に収縮された。震えるように痩せた手を握る。身体的には普通の人間である審神者よりずっと長くこの世に存在するはずなのに、幼子のような付喪神を、彼女は上半身を少しだけ起こして抱き寄せた。
 寝そべった女の胸部に今剣の頭が乗った。呼吸に合わせてゆっくりと上下して、確かな鼓動が届いた。

 ふいに思い出した。
 季節がひっくり返るように、戻っていく。





「ひとはなぜしんでしまうのですか?」
 まだ冬を残した空気を通って意味をなした、言葉通りの意味しか持たない単純な問い掛けに、主は息を呑んでいた。なんと答えるべきか、迷っているような気配が今剣にも感じられる。
 こんなことを尋ねたところで、何かを得られるわけではないと理解している。蘇ってくれるわけでも、時間が戻るわけでもない。歴史を変えることも許されず、ただ受け入れるしかないものばかりで溢れかえる。
 「難しい」と唸るような、苦笑するような声が聞こえる。
「でも、難しいけれど、誰も死ななかったらきっと誰も生まれてはこないのよね」
 子孫を残すというのはそういうものだから。自己は一生存在し続けられるわけではないからこそ、種という大きな括りで残ろうとする。
 そんなような話を、主はしていた。そうして少し間を置いてから、今剣と同じように脚を下ろしてぶらつかせた。
「私は義経公が羨ましいわ」
「どうしてですか?」
「月並みだけど、忘れなかったら今剣の中にはずーっと義経公がいるじゃない」





 そうだろうか。
 長い時を経ても忘れたことなどありはしないけれど、それは思い出に過ぎない。それらは決して更新されることはなく、記憶していることを何度も何度も思い返すだけ。いなくなったことに変わりはないのに。
 ゆっくり脈打つ心音を聞きながら、今剣は思い出していた。忘れなければ、なんてそんなこと、死んでしまったことに違いはないと、今でもそう思う。今ここに生きている心音が心地いいのだから、思い出ではだめだ。
 いやです。もう一度言った。
「覚えていてくれたら、いっしょにいられるものだと私は思うのよ」
「それでもいやです。あるじさまがいなくなるのは、もうくるしいんです」
「今剣」
「いやです」
 駄々っ子のようだ、と女は困ったように笑った。まるで何か望みが叶えられなくて泣く幼子のようであっても、今剣の言葉ははっきりしていた。
「みんなもいるし、義経公も今剣の中にいるわ。私も同じところにいるから」
「ちがいますよう、あるじさま、ぼくはよしつねこうもあるじさまも、いっしょに」
 駄々をこねる子どものように、薄手の掛布団を握り締めた。
 いくらこの胸に鮮明な記憶があるとしても、忘れ得ない思い出があるとしても、それらがすり切れるほど思い返したとしても、二度と主に使われることも手を握ることも、こうして心音を聞くことも叶わない。それがいやだと嘆いているのに、胸の内に、なんて少しの慰めにもならないのだ。
 なぜひとはしぬのだろう。それもあんなふうに。なぜなのだろう。あんなふうにしか最期を迎えられなかったあるじのために、歴史を変えることもしてはならない。
 あるじさま。
 あの人に続けてあなたまで、こんなかなしい最期はいやだ。
 言葉になり損ねた音がぽろぽろと零れ落ちる。
 覚えているというのは苦しい。忘れなければ誰かの記憶の中には生き続けられるかもしれない。けれど、それはとても苦しいことだ。忘れないからこそ、思い出してはもういないことを突きつけられる。
「……ごめんね」
 女は艶やかな銀髪をそっと撫ぜる。
 謝らせたかったわけでもなかったが、何一つ言葉にならず、今剣はぎゅっと目を閉じた。
 そうじゃないのに。ただ、いつまでもなんて言わないから、こんなふうに終わるのがいやなだけなのに。それも許されないのだとまた理解してしまうほかない。どうしようもないのだと、どうしようもなくこの人もいってしまうのだと、いやというほどにわかってしまった。
 この先も何度新しい出会いを経験したって永遠に聞き届けられない思いは、終ぞ吐き出されることはなかった。それから、もう二人は黙ったまま。静かに時間だけが流れた。
 蝉さえ鳴かない、静かな夏の日のことだった。







 主君であった審神者がいなくなって、どこかで葬儀が終わり、刀剣たちの処遇も各々決まった。
 新しい本丸へ行くことになった今剣は、荷物が片付けられて寂しくなった室内を見て回っていた。「わすれものがないかかくにんしてきます」とだけ周囲に告げて一人になると、広い屋内を眺めて回る。そしてがらんどうのように空虚な中から、いくつもの過去を拾い上げていく。それはもういない主との記憶だけではなく、この場所であったすべてのこと。一つ残らず、取りこぼさないように。それはやはり少し苦しくて、思わず眉を顰めてしまいそうになる。
 けれど、主がいなくなって、少しだけわかったこともある。
 人の身であるということは、こういうことなのだと。いなくなった人を思い出の中に生かし続けて、思い出すたびに嬉しくもなり苦しくもなる。悲しくもなり楽しくもなる。もう戻らないと知るたびに、胸の奥が鈍く痛む。
 そしてそれは何かを失った際の救いにはならないけれど、人の身である以上避けては通れない。
「あるじさま」
 少し声が掠れる。いっそう物寂しく見える審神者の私室であった部屋の前で、今剣は呼び掛けた。記憶を繰り返すだけでしかない主の笑顔が目前に映る。今剣、と呼んでいた。
 あるじさま。
 あの夏の日を思い出す。苦しくなって、思わず胸の辺りを手で押さえた。人の身である以上、この痛みも少しずつ癒えていく。こんなに苦しいのもずっとこのままではいられなくて、しかしそれでも、すべてを忘れて楽になることはないのだ。
 ちり一つ残らない部屋を、じいっと眺める。息を吸った。
「さようなら」
 ひとおもいに告げると、今剣は駆け出した。他の刀剣たちが待っている。これ以上は、ここにはいられない。
 仲間のもとへ向かう今剣の表情は、もういつも通りのものだった。小気味よい足音が響いて、それを最後にこの場から音は消えた。あとには何も残らない。どんなに苦しくても、記憶の一つだって、ここに置いて忘れていくことはできない。
 次の場所でも、その短刀はやるべきことを全うするだけだ。忘れず、心に秘めて、時折思い出しながら。そうしてそのたび、思い出の中に生きるかつての主たちを思い浮かべるたび、いつでも思うに違いない。


 でもね、やっぱりくるしいですよ、あるじさま。
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