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プラダのチュールワンピースを纏って、ルブタンのシューズに体を預ける。長い睫毛と陶器のような肌を作り、そしてマゼンタピンクのルージュをひく。そして最後にシャネルの5番を着るの。こうして誰からも愛される氷帝の女神が出来上がるのだ。モードの女王ココ・シャネルはこんな言葉を残している。「出かける前に、何かひとつ外したら、あなたの美しさは完璧になる」―――私はその勇気を持ち合わせていない。何かひとつでも仮面を剥ぎ取ってしまえばきっとそこから攻め落とされてしまう。これは仮説ではない、現に私の恋人である男は今まで出逢ったどの異性よりも淫靡な声の持ち主だ。生徒会室のドアノブに手を伸ばした瞬間こちら側に向かって開かれた扉によって体勢が崩れた。誰かの腕に腰を支えられ、香水の香りが鼻腔を擽る。堪忍な、と耳元で囁いたその人物こそが忍足侑士であった。あの日から彼の声は私の精神を支配し続けて逃れることを許さない。 「そんなに忍足のことが気になるのか?おまえが愛してるとでも言えばすぐに手に入るだろ」 「景吾の気のせいよ」 「この前テニス部の練習を見に来ていただろう、すぐに帰ったみたいだが騒がれていたぞ…氷帝の勝利の女神は誰に微笑む、ってな」 「それだけで何故私が忍足くんを好きだと?」 「アーン?俺様のインサイトを舐めるなよ」 生徒会室のソファで向かい合う景吾を一瞥すると、彼はアッサムの入ったスワンサービス カポデモンテのティーポットを指で満足げになぞる。意外にも砂糖は二個、ミルクは多めの紅茶を好む彼の舌を満足させられる味を作れるのは私とミカエルさんしかいないという理由で副会長というポジションを配された。16時を知らせる鐘が鳴ると景吾はいつもより楽しそうな様子で部活に行くと声を弾ませて消えていった。生徒会の仕事といっても会長はあのキングだ。ほぼすべてのことを一人でそつなくこなしてしまうし、なにより容量がいい。特に行事のないこの時期はこうして昔から仲の良かった景吾と穏やかな時間を楽しんでいる。ティーセットの片付けをしようと立ち上がれば控えなノック音が3回響き、薄く開かれた扉の隙間から音の主が顔を覗かせる。 「忍足くん?どうしたの?」 「え?さんが俺に用があるからって跡部が…あーあいつ計りよったな」 景吾の機嫌がよかった理由はきっとこれだろう。そのとき、がしゃりと何かが落ちた音が聞こえて、其方へと目を遣れば忍足くんが眼鏡の場所を探して床へと手を伸ばしていた。彼の前で眼鏡を拾いあげようとした腕をぐいっと引かれ扉へと体を押さえつけられる。突然のことに状況を把握できないでいる。 「なあ、…自惚れとるわけやないけど、俺のこと好きやろ?」 「……そんなことないわ」 「ずっと俺のこと見てたくせに?それにな、さんを見てたら分かる、平気そうな顔して相手の様子を伺ってる、全部悟ってほしい、今まで誰にも言えんかっただけ、違うか?」 「本当の私なんて愛してくれなくていい、そんなもの何の意味もないのよ」 怖いのだ、この仮面を剥がされてしまうのが。何もかも見透かすその目に映し出されることが。目の前にある彼の顔が次第に近付いてきてそっと耳元へ唇を寄せられた。ダメだ、絆されてしまう。何よりも求めていたのだ、ひと月前、扉一枚を隔てた向こう側で私から全てを奪い去った彼と、声を。言葉を否定する私の耳の横の髪を掬い口付けを落とした彼は再び耳元へと唇を寄せる。 「俺のこと、好き…やろ?」 もう一度囁かれたテノールが媚薬を仕込まれたかのように全身を駆け巡って身体を痺れさせる。言い聞かせるような声色に素直に首を縦に振るしか選択肢はない。氷帝の女神が彼の手の中に落ちた瞬間であった。触れ合うと思っていた唇はそれ以上距離を縮めることのないまま体温が隔てを置く。今日は一緒に帰ろな、ここで待っといて。私を抱きかかえた彼はそれはそれは優しい笑顔でそう呟く。ソファに下ろされ男性独特の堅さを帯びた指先が髪を撫でた。何年ぶりだろうこうして誰かに心を許したのは。私はもうこの人から逃げることも、この人を手離すこともできないだろう。そんな感情を心の奥に仕舞い込みながら、景吾同様上機嫌で部屋を後にするその背中を見送った。薔薇色に萌えた頬に冷えた指先を当てても熱が落ち着くことはなくて、突如やってきた恋の始まりを受け止めきれないままだった。 「また眠れへんかったん?」 「侑士がいないとこわい夢をみるから」 「そうやってもっと俺に依存してほしいねん」 「ひとりの夜はやっぱりまだこわいの」 「ずっと怖いままでええんやで、着替えるまでちょっと待っててな、ぎゅーしたる」 同じ空間に彼がいる、ただそれだけでどうしてこんなにも安心できるのだろう。この人だけが知っている仮面を外した私は、それでもシャネルの5番を脱ぐことだけはしなかった。彼の前ならば二つのシャネルがあればそれでいい、いつの間にかそう思える程、深く溺れていた。彼が袖を通した紺色のパジャマは私が着ているものと色違いで、私のことを喜ばせる術を全て知り尽くしている彼には永遠に敵わない。パジャマを見てはにかんだ私を見て、侑士もまた笑う。依存することを必要とする私と、依存されることを必要とする侑士。心が満たされるということは、とても気持ちがいい。あの日愛のキューピッドになった景吾と同じように彼の指先がティーポットの冠へと触れた。 「これ、あの日生徒会室にあったやつやんな、ちょっと妬けるわ」 「私が持ち込んだの、言うなれば初めて出来たお友達よ」 「じゃあ仕方ないな、友達は大切にせなあかんよ」 「本当にそう思ってる?」 「俺はに嘘ついたことあらへん」 「…それも嘘」 「ほんまやって」 「生徒会室で眼鏡を落とした時、見えないふりしてたでしょう…伊達眼鏡なのに」 「そんなことまだ憶えてたん?は俺のこと大好きやなあ」 慈しむように撫でられた髪にまた笑みが零れた。腕から引き抜かれたぬいぐるみは役目を終えたために枕元に座らせられる。今度は私が彼の腕に抱かれる番だ。擦り寄せられた頬に膨らませていた頬は元の位置へと押し戻された。くすぐったくて身を捩れば逃がさないとでもいうようにがっちり掴まれた身体が彼と共にベッドのスプリングを揺らす。 「侑士、お風呂は?」 「んー?明日の朝一緒に入ろ。今はのことこうしてたい」 髪へ埋められていた顔が項へと降りて唇がゆっくりと愛を落としていく。香りを吸い込むために押し付けられた鼻先が深い呼吸と共に上下に動いて、抱き締められる力が一層強まった。先程まで冴えていた頭が嘘のように忍び寄ってきた睡魔によって支えきれなくなった頭の重みで枕が沈む。視界の端に映るぬいぐるみの耳が垂れていくのを見守りながら眠りに誘われる頃、魔法をかけるように必ず彼は抱えきれないほどの愛を囁く。愛する人の囁きさえあれば私はシーツの海を何も纏わずに泳げるのだ。 「一生俺だけのでおって」 |