- 偲ぶ -
クリーム色のブラウスに、レモンイエローのカーディガンを重ねる。ボトムスは派手すぎない色味を選んだ花柄の膝丈スカート。髪型はハーフアップにしてバレッタで留める。朝姿見で自分の恰好を見て、あの時と随分違うその様子に、おかしくて笑みが零れてしまった。「あの時」、わたしは髪を明るい色に染めて、制服のスカートをやたら短くして。つんと澄ましているわたしを受け入れてくれる友人たちに甘えて。
そうして、あのひとを見ていた。持て余した気持ちの処理の仕方が分からず、あのひとに向けてぶつけて。
「―?そろそろ出んと、間に合わんで」
「はーい、今行く」
――あの時、から10年。あのひとへの気持ちを、偲ぶために、会いにいく。
*
「……まさか、お前らがほんまに結婚するとはなあ」
「当時から婚活してたのに、追い抜かしちゃってごめんね、オサムちゃん」
「お前の口が減らんとこは全っ然変わっとらんな。白石、躾が足りんのとちゃう」
「俺にはこれが手一杯やからなあ。もともと俺が言うて聞くようなヤツじゃないやろ」
軽口を叩けば、オサムちゃん――わたしたちの恩師は呆れた声で返し、居酒屋のテーブルに置かれた灰皿に灰を落とす。わたしの隣で、蔵ノ介が優しく笑う。わたしと蔵ノ介が式を挙げる日が、もう3カ月後に迫っていた。
「ほな、俺はそろそろ行くわ」
「ん?お前この後なんかあるんか」
「まあ、野暮用がな。オサムちゃん、また飲み行くん付き合ってや。 …、後で迎えにくる」
「うん。連絡するね」
蔵ノ介が、わたしの目をきちんと見つめて、そう言って席を立つ。蔵ノ介のこういうところがすきだ。わたしを信じてくれる。受け入れてくれる。この優しさに、わたしは出会ってからずっとずっと、救われてきた。
「白石も全然変わらんな」
「え?」
「お人好しで、気ぃ遣いなとこ」
「……うん」
さすがに、この後用事がある、というのが嘘だというのはばれているようだ。自分を落ち着かせるために、オサムちゃんにはすっかりもう伝わっているであろう、今日の目的を改めて切り出す。
「わたしが、オサムちゃんと話をしておきたくて」
「ん」
あの時と何にも変わらない彼の声に、泣きそうになった。大袈裟な声音からは程遠い、むしろ気のなさそうな声で紡がれるその相槌が、わたしはたまらなくすきだった。
どんなに下らない話でも、呆れたり突っ込んだりしながらも、決してわたしたちの言葉や気持ちを軽んじない。わたしにとってのはじめての信頼できる大人で、わたしにとってはじめて、心が苦しくなるほどすきになったのが、このひとだった。
「……あの時は、ごめんなさい。子供で、なんにも分からないまま気持ちをぶつけて、困らせた。たくさん良くしてくれたのに、迷惑かけちゃった」
10年前。オサムちゃんに告白をして、勿論振られて、それからわたしは白石と付き合い始めた。振られたときは酷い、と思った。所詮オサムちゃんも他の大人と一緒で、子供の言うことなんか聞いてはくれないのだと。
今なら分かる。わたしを生徒として大切に思ってくれていたからこそ、子供の言うことをきちんと受け止めてくれたからこそ、言葉を選んで返してくれていたのだと。
「……別に、謝るような悪いことはしてへんやろ」
何でもないことのように、けれど落ち着いた声で返されてわたしは顔を上げる。オサムちゃんはこちらを見てはおらず、穏やかにも見える顔つきで、ぼんやりと灰皿あたりを見つめていた。あの時のことを、思い出してくれているんだろうか。
「立場として気持ちに応えるわけにいかんかったけど、お前の気持ちが迷惑やったわけやないよ。お前がそこまで他人に心を開くようになったんやなあて、ちょお嬉しかったくらいや」
――ああ。わたしは。
「俺も、お前とよう話すようになるまでは、部活の男どもの相手ばっかしとったからな。上手く距離掴めんくて、可愛がりすぎたんかもしれん。……東京から来たばっかのお前は、手酷いことされたことある野良猫みたいで、放っとけんかった。そりゃもう生意気やったけど、捻くれんと、ようまっすぐに育ったもんやと思っとったよ」
ああ、わたしは、確かにこのひとをすきだった。
オサムちゃんらしくもなく感慨にふけったように聞こえる、くすぐったいその言葉たちを、茶化す余裕などなかった。瞬きをしてしまえば涙が零れてしまうと思ったから、必死で目を開いて、すきだったひとを見つめていた。わたしが特別に贔屓されていたわけではない。けれど、このひとは確かにわたしを解ってくれて、大切にしてくれていた。いちばんの芯が揺らがず、それでいて本当の意味で優しいこのひとがすきですきで仕方がなかった。そのことを、いくら幼い恋心だからと言って、どうして偽物だったと蔑む必要があるだろう?
「……オサムちゃんの、優しいところがすきだった」
涙が今にも零れ落ちそうになっているのがばれないように俯く。食べかけになっているおつまみを装った小皿が、涙のせいで滲んで見える。オサムちゃんは何も言わないけれど、昔みたいに、きちんと耳を傾けてくれているのは、何となく分かった。
「単なる憧れが大きかったけど、でも男のひととして、すきだと思ったのは、本当なの。それを若気の至りとかで、嘘にするつもりはないの」
「当たり前や。お前まだ十分若いやろ。そのトシで若気の至りとか言うたらシメるで」
ふふ、と笑みが漏れる。けれどさすがにもう涙を我慢することができなかった。頬をあたたかい雫が伝う、拭わずにそのままにした。これは後悔やただの感傷じゃない。あのとき向き合えずに無理やり蓋をした思いを、大切に手にとって、形にしたくて、今日ここにやって来たのだ。それがたとえ自己満足と呼ばれるものだとしても、わたしにとっては本当に愛しい想いだったのだし、――そして目の前のこのひとも、それをきちんと慈しんでくれるひとだから。
「わたしは、オサムちゃんをすきになって、本当によかったよ」
この言葉だけは目を見て言いたいと、そう思って顔を上げた。涙でぐちゃぐちゃの、酷い顔をしてるんだろうな。せっかく服に合わせて、ばっちり清楚系のメイクにしてきたのにな。そんなことを、頭の隅で考えていた。すこし驚いたような顔をしたオサムちゃんは、すぐに、くしゃ、と相好を崩して優しく笑い、私の頭に手を伸ばした。
「幸せに、なり」
彼のその声に、わたしの想いはやっと光になる。消えるのではなく、靄として残るのでもなく、わたしの中できらめいて、そうっと溶けて、わたしの海のひとしずくとなる。その海を湛えて、わたしはまた何かを大切にすることができる。
偲ぶという字は、ひとを思うと書く。だから決して寂しいことではないと、わたしは誰かから聞いたことばを胸の内で思い返していた。
幸せに、なるのだ。