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「今日は平和ですねえ」 「だなァ」 「わたしたちがパトロールするまでもないっていうか」 こんな晴天と凪いだ空気のもとで、黒塗りの車から質の悪いエンジン音を響かせること自体が野暮ってものだと思う。同意を求めるように助手席へ視線を遣ると、いつの間にかお馴染みのアイマスクを外していた上司は「さすがだ。いいこと言いまさァ」と無気力なわたしを褒めた。そして彼は、落語が流れるカーオーディオの音量調節のつまみを反時計まわりに回してから、無駄に声を顰めて言う。 「じゃ、ちょっとサボりに行こうぜィ」 そうこなくっちゃ。期待通りの展開にわたしの頬骨が上がる。ふたりでニヤニヤと、なんてろくでもない上司と部下だろう。わたしは沖田さんの指先にならって、最寄の交差点で左のウインカーを出した。この先には河川敷がある。その奥は案外土方さんに見つからない、サボりの穴場だ。 「おっと、ストップ。このへんに止めやしょう」 沖田さんが合図をしたのは、大通りから離れて20分ほど走ったところだった。警察らしからぬ大胆な路駐をして、わたしたちはパトカーから降りる。今の時間は車通りも少ないしまあ大丈夫だろう、とか自然と思ってしまうのはたぶん沖田さんの部下歴が長いせいだ。 川辺に向かって草に覆われた斜面を駆け降りるわたしを他所に、沖田さんはいつまでたっても高いところにいる。不思議に思って声をかけると、もっと上流の方が見たいんだという返事が返ってきた。わたしはなるほどと思ってしばらく川面のそばをひとりで歩いていたけれど、つまらなくなってまた緑色の斜面を登った。結局、ふたりして川面を見下ろしながら木陰がかぶさるコンクリートを歩く陣形に落ち着く。 「こっちに来ると結構涼しいですね」 「そりゃあな。それより、パトカーに日傘積んでるなんざ随分準備がいいもんだなァ」 「だって、紫外線ばかり気にしてちゃせっかくの散歩がもったいないでしょう」 「ほォ?まるでハナから今日の予定が分かってたような言い草じゃねェか」 沖田さんが小さく鼻を鳴らして、真意を確かめるようにこちらを見る。わたしはさあどうでしょうね、なんて下手くそに取り繕ってから、両手で握った日傘で表情を隠した。わたしが今日のことを意識せずにはいられないことくらい、もう分かってるくせに。そういうわざとらしいのはひどい。 「……何で今日に限って馬鹿みてえに穏やかなんですかねィ」 嫌味としか思えねえや。ふだん悪態ばかり吐いているその薄い唇から、ぽつり吐き出された切なげな言葉をわたしの右耳が拾う。どうやらあちらも誤魔化すのを諦めたようだった。 傘の先を除ければ、逆光の中で何とも言えない表情をしている上司の顔がぼんやりと見えた。これは、悲哀に加えてちょっとした憎悪とかたくさんの自責の念とか、そういう色んなものが混じった顔だとわたしは勝手に思っている。わたしがこの人のこんな顔を見るのは、今日が初めてではないのだ。 「沖田さん」 無意識にその名前を口から滑らせたとき、わたしはこの人に特別な感情を抱くようになったきっかけをぼんやりと思い出していた。どう考えてもこの雰囲気に中てられたせいに違いない。いつの間にかふたりの距離は開いていて、少し遠くで沖田さんが「なんでィ」と首だけで振り返った。 ―――ああ、もう。 慌てて「やっぱりなんでもないです」と喉を絞り上げてから、これくらいのことで息ができなくなってしまう病気はどうしたら治るのだろうとわたしは真剣に考える。光沢のある真っ黒な背中に身体を預けたいと思ったり、だらしなくポケットに突っ込まれた腕にしがみつきたいと思ったり。最近のわたしには堪えるものが多いのだ。許されるわけがないと頭では分かっているのに、心臓が我儘ばかりを言って困らせる。いつからこんなに薄情な女に成り下がったのだろうと、夜な夜な落ち込んで眠れないのはさすがのわたしもつらかった。 「……お前、なんか勘違いしてるよなァ?」 ふと前方から声が飛んできたのは、あれからまたお互いに少し歩いて、パトカーを停めた場所から随分と離れてしまったなあ、なんてぼんやりと考えていたところだった。わたしは顔を上げる。変わり映えのしない背景の中で、見慣れた後姿がさっきより数歩ぶん近づいていた。投げかけられた言葉の意味がよく分からないわたしがしばし黙っていると、沖田さんが呆れたように長い溜め息を吐いたのが分かる。そしてまた、視線だけをこちらに寄越した。思わず傘を持つ手に力が入る。 「あれからどれだけ経ったと思ってるんでィ?お前もそろそろ自分の好きなようにやんな」 さらり、と彼の前髪が揺れて、わたしはその場に立ち止まった。そして唇を噛む。どうしてそんなことを言うんですか、と泣きわめきたくもなるってものだ。意味を噛み砕けば噛み砕くほど苦しくなるものだから、わたしはもっと甘い言葉が欲しくて彼の蘇芳色に縋った。 「わたしは、許してもらえるんでしょうか」 「さあな。呪い殺されたらそのときはそのときでさァ」 彼はわたしに欲しい言葉はくれなかった。不安がってる女にさらりと怖いことを言う。小走りで隣に並んだあと、恨めしい気持ちで左斜め上を見ると、栗色の髪に隠れた横顔はいつになく楽しそうに笑っていた。 「ま、どうせあいつのこった。今頃あっこから俺らのこと馬鹿にして笑ってらァ」 ぼんやりと空を見上げて目を細めた沖田さんがあまりに儚げで、わたしは息を呑んだ。つられて空を仰げば、当然歩みも止まる。吸い込まれそうな晴天は、いっそうわたしの胸の痛みを煽った。もう、言ってもいいんでしょうか。答えの返って来るはずもない問いが生ぬるい空気に溶けていくのが哀れでならなかった。 「言っとくが、お前が地獄に落ちるなら俺も一緒だぜィ」 今日だけで何度目だろう。声がした方へ視線を持ち上げれば、沖田さんはまた離れたところにいて、立派なかげぼうしを引き連れてこちらを見ていた。そこでようやく、今までも当然そこにあったはずのせせらぎの音が聞こえてくる。いつの間にか西の空は随分日が傾いていて、彼の奥に見える薄い夕焼けの眩しさに目を細めた。 「どう転んだって、お前だけが悪いなんざありえねェよ」 人の気も知らないで。わたしをとびきり甘やかす言葉を勝手に放り投げておいて、彼はまた前を向くのだ。今までポケットに突っ込まれていた手首が得物のそばで揺れている。距離が遠くなったからだろう、目ざといわたしはそれに気付いてしまった。 悪いけれど、こちとら最高の殺し文句を聞いたあとなのだ。一瞬でも角膜を過ぎてしまえば、わたしは追いかける足を速めずにはいられなかった。長い間抑圧された欲望はなんと恐ろしいものだろう。 「お前はさっきから何しんみりしてんでィ、柄でもねェ。とっとといつものアホ面に戻りな」 こちらの葛藤なんて気づいてもいない沖田さんは振り返らずに言う。欠伸を噛み殺した声だと一瞬で分かった。ちょっと、年頃の娘つかまえてアホ面なんて失礼な。しかも欠伸しながら言わないでくださいよ。内心口を尖らせながら、それでもわたしの指先はわざと聞こえないふりをした。 と言うより、言い返す余裕が今のわたしにはなかったのだ。日傘が仰向けになって地面に転がる。 「―――ごめんなさい」 好きです、の四文字を抱えたわたしの指の腹が、その滑らかな生地に触れるまで、あと10秒、5秒、 3、 2、 1
[企画:「どうする」様]('15.06.02) :「流れる」 × 時間 × 瞬間 × 沖田総悟(SS) :image by はだし |