(望む:30 minutes' peeping conversation)

 ちょっと休憩せえへんかと蔵ノ介が誘ってくれたのは、土佐堀通りのオフィスビルの隙間にある小さなコーヒーショップだった。こじんまりとしたフラワーショップと並びあった店舗はその奥がテラス席になっていて、大川の川岸に面したそこに座れば、中之島の緑を一望できるスポットとしてローカルメディアではすっかり馴染みの存在だ。昔卒業旅行で行った、ニューヨークの美術館脇にあった古いカフェを彷彿とさせる店構えは、わたしと蔵ノ介にとってもまた馴染みの存在であった。

 彼が店先のカウンターでトールサイズのローストコーヒーを二つ注文してくれている間に、空いているソファ席に両手に提げた荷物ごと滑り込む。この店に来たからにはテラス席でのんびりと過ごしたかったものの、そんなささやかな望みは早々と諦めざるを得なかった。何せ土曜の昼下がりだ。休日で、しかも久しぶりに穏やかな日差しが差し込んでいることもあって、どや顔でMacBookを操るお兄さんだとか、デジタル一眼レフをぶら下げたお姉さんだとか、個性的なファッションに身を包んだカップルだとかで店は随分と賑わっていた。

「相変わらず流行ってんなぁやっぱり。ここ、オープンしたのいつやったっけ?」
「この間で2周年ちゃうかった?通り抜けやっとった時に、確かそんなフライヤーをもらったはずだから」
「もうそない経つんか、早いな」

 洗濯洗剤のすっきりとしたにおいに、コーヒーの甘くて香ばしいかおりをまとわり付け戻ってきた蔵ノ介は、そんな店の様子を軽く見渡してふう、と一息ついたあと飴色のソファに腰掛けた。
 華美な装飾を嫌う彼らしい洗いざらしのコットンシャツにカジュアルなチノパンを合わせただけの簡易な装いであっても、昔から全く変わらない見目の良さと姿勢の美しさで店にいる誰よりも様になっている。

 お疲れさま、とありがとうを小さく口に出してから、差し出されたコップを手に取って口をつけると、小さくあまいにおいが香った。店自慢のローストは日によって豆が違うらしく、どうやら今日は酸味の少ない種類のようだ。
 フレーバーコーヒーと間違えるほどのベリーを思わせる甘い香りを堪能して、ミルクと砂糖を少しずつ足す。昔からブラックコーヒーはあまり得意ではなかったのに、一口目はミルクも砂糖も加えずにそのまま飲む習慣がついたのは、目の前で同じようにコップに口付ける男と付き合いだしてからのことだ。

 壁一面をぶち抜いて作られた店の窓からは、午後の陽気が穏やかに差し込んでくる。
 テラス席では薔薇公園の方にカメラのレンズを向ける姿が散見できる。ここしばらく大阪の天気はあまり良くなかったから、こうも晴れるとカメラ日和だろうし、どうにも路面店での買い物が捗ってしょうがない。ヴィンテージ加工の施されたテーブルの上にそっとコップを置いて、無理やりソファの端に寄せた紙袋の山に目をやった。中之島の花に負けず劣らずカラフルな紙袋たち。

「にしても、ちょっと買いすぎちゃったかな」
、かんっぜんにオレのこと荷物持ちや思とったやろ」
「えっへっへ、おかげでとっても助かりました」

 とはいえ買いすぎは明らかに私だけの過失でないのだけれども、これは黙っておく方がいいのかもしれない。どちらかといえば今日は蔵ノ介の方がはしゃいでいたように思う。
 晴天と同じくらい久しぶりに休みが揃ったから、今日こそ買い物にいこうや。
 そういってやけに張り切った蔵ノ介は、休みの日だというのに朝の6時に叩き起こしにやって来た。そんなはよう来てもどこもお店開いてへんよと、うちで久しぶりに二人揃って朝ごはんを食べながら笑った。
 買い物の名目は、ついこの間一人目の子どもが生まれたという共通の友人へのお祝い探しだ。
 蔵ノ介のほうが付き合いが長い分、きっと思い入れも強いのだろう。子供用のおもちゃを扱うお店から輸入品を揃えるスーパーまで、次から次へとお店を巡っては品物をカゴにぽいぽいと放り込んでいくのは蔵ノ介の方で、いつもなら諌められるはずのわたしが品物を選別する役割だったから。

「けど、洗剤ばっかり謙也にそない持ってってもしゃあないんとちゃうか?」
「全部が全部謙也くんとこにあげる分ちゃうよ!うちで使う分もあるし、蔵ノ介の家に置いとく分もあるし!」

 蔵ノ介がそう言ってすらっと伸びた長い人差し指で差したのは、輸入ものの洗剤を扱う店のショッパーだった。中にはいつも使っている洗濯洗剤と柔軟剤が3本ずつ入っている。海外製品といえど決して嫌らしくないシンプルな香りが気に入って、自宅はもちろん蔵ノ介の家にも2年も前から絶やさず配置済みの品だ。
 体にやさしい素材で作られていて、子育てをしている母親から人気の品なのだと口コミサイトで見かけたものだから、これはあくまでおすそ分けなのだと懇切丁寧に説明した。
 蔵ノ介はあまりわかっていなさそうな顔だった。わからないというより、興味のなさそうな顔だった。洗剤なんかどれも同じだろうというそういう顔をしていた。君の好きなシャンプーの香りのする女の子は、どういう努力をもってして生まれているのか思い知った方がいい、とは学生の頃だったらきっと口に出していただろうけれども、さすがにもういい年だ。

 昼下がりのコーヒーショップは、コーヒーショップらしいボサノバ系の音楽が女の子たちの黄色いおしゃべりをまとって店内を満たす。そんなバックミュージックをよそに、蔵ノ介の「そういえば、」の一言は随分とくっきりと聞こえた。カジュアルなコーヒーショップにあんまり似つかわしくない何かとても大切な話が始まるのかと思ってついどぎまぎしてしまった。続いた話題はとりとめもないことだったけれども。

「こないだな、謙也と仕事帰りに飲みに行っとったんや」
「えっ、いつ?ずるい、呼んでくれたらよかったのに」
「すまんすまん、夜中やったしどないしょーかな、思ったんやけどな」

 わざとらしく少しだけ片頬を膨らまして視線を外したからか、蔵ノ介は苦笑いを浮かべながら片手を上げて軽く謝ってみせたけれども、これは全然悪いと思っていない時の顔だ。多分初めからわたしを呼ぶという選択肢は持たなかったはずだ。さみしいけれども男同士積もり積もった話もあったのだろう、そういう察しくらいはつくようになった。世の女子のいう大人になった、とはこういうことを言うのだろう。
 大学で出会った蔵ノ介との共通の友人であるところの謙也くんは、彼と同じ建物で働いている。といっても謙也くんの方は泣く子も黙るお医者さんなものだから、一般的なサラリーマンのいう飲み会の時間帯に出てくるのはなかなか難しい。明るい人柄であちこちから引っ張りだこの謙也くんとは、同じ建物にいるといっても仕事中にちらっと見かける程度だと聞いている。
 飲みに行った日のことを思い出しているのか、蔵ノ介は手元のコーヒーをワインを回し飲むようにくるくると揺らしながら続けた。ビールよりワインを好むようになったのは25を超えた頃だったように思う。

「別に大した話はしてへんねんけどな。飲んでる間、あいつ一丁前に親の顔しよったわ」
「なんかさ、謙也くんがお父さんになるっていうの、未だにちょっと信じられへんのよね。結婚式のときも思ったんやけど」
、それずっと言うとったもんな、二次会の時」

 昨日のことのように思い出す学生時代に馬鹿騒ぎをしていた仲間だったものだから、当然といえば当然だ。それでも、その場に居合わせなくとも謙也くんが蔵ノ介いわく親の顔をしているという様子は想像にかたくない。昨日のことのように思えても学生時代は随分と遠い過去のことだ。わたしたちはもう28で、もうそういう年なのだ。子供のひとりやふたり、同級生にいても何の不思議もないし、それが謙也くんであってもなんの不思議もないはずなのだ。
 店の中は相変わらずせわしなくおしゃべりが続いているのに、わたしの唇からすり抜けた「そういえば、」も存外くっきりと聞こえたものだから、自分の声に自分でびっくりしてしまった。まったくもって大した話でもないのに、とても改まって聞こえてしまってどぎまぎとする。結婚だとか、そういうセンシティブな話題だから尚のことだ。おかげで不思議そうな顔の蔵ノ介に向かって話し出すのに「全然、大したこととちゃうんやけど、」と付け加えなければならなくなった。

「まだ付き合う前の話やけど、わたしな、蔵ノ介が一番に結婚して、子供できると思ってたんやで」
「そうなん?」
「そうそう」
「なんで?」
「なんでやろー…。多分、うちらの中で一番落ち着いてて、昔から大人っぽかったやん。やからかな?」
「うーん、まあ確かに、謙也よりははよ結婚するかな、とは思っとったかなあ」
「まさか謙也くんが一番乗りするなんて思てへんかったよねえ」

 23の時に付き合い始めて、そこから一度も結婚の話をしたことがなかったわけではない。若い付き合いたての甘い空気や、肌を合わせた後のぬるま湯のような心地よさに流されて、ふわふわとしたファンタジーの一種としてわたしたちは言葉遊びを繰り返した。
 結婚というワードはわたしたちにとっては望むべき現実じゃなく言葉遊びそのもので、間違っても素面の時とか、今みたいにコーヒーを飲みながらおしゃべりをするタイミングでする話ではなかった。わたしたちに、というよりわたしにとっては、が正解かもしれないし、言葉遊びというよりオブラートに包んだ願望というほうが正解かもしれない。意図的に避けられているようにも思えたもので。
 学生の頃、学食で友達と結婚するなら幾つがいい、と話していたのを思い出す。
 できれば25くらいで結婚して仕事辞めたいよね、なんていう願望を連ねながら、実際25歳なんて仕事が楽しくてあっという間に過ぎてしまった。後輩に仕事を教えられる程度には覚えてきて、自分でコントロールがある程度できて、そうこうしているうちにあの頃学食でお昼を食べながらくだらないことばかり話をしていた友達はみんな結婚してしまっていた。
 急かしたようになるのが嫌で話題を変えようと試みたものの、目の前の蔵ノ介が相変わらず手元ではコーヒーを軽く回しながら先に口を開いた。

はどないなん」
「は?」
は、自分ではいつ結婚する思っとった?」

 ついいつものノリで返してしまって、少しだけ後悔した。口調こそいつもの軽いおしゃべりを楽しむトーンであったけれども、わたしの瞳を覗き込むようにまっすぐ向けられた目だけはいかにもこれから大した話をします、という意思を持っていた。
 ブルックリンの香り漂うコーヒーショップは、相変わらずボサノバ調のよく分からないアレンジのサウンドトラックが流れている。学校を出て、仕事も後輩に教えられる程度にはそこそこ覚えたけれども、人生の局面にどういう音がするのだとか、こういう時の正しい反応の仕方だとかは誰も教えてくれなかった。

「……丁度いまくらい」
「せやな、オレもそう思うわ」

 テーブルの上にはいつの間やら、どこで手に入れてきたのか、華奢な印象のブーケがコーヒーの入った紙コップに添えられていた。バラにカーネーションにスズラン、といかにもな花が揃えられていてバランスもへったくれもない。涙がでそうに綺麗だ。

「まあいきなり籍入れるはハードル高いとしても、ひとまず一緒に住むところから始めよか。そしたらもうあの洗剤も一本で済むやろ」
「……謙也くんのところに二本ずつあげる?」
のそういう切り返し、結構好きやで」
「はっきり結婚しようって言わへん蔵ノ介は結構好きじゃない」
「まあまあ、それはまた今度にとっといてや。めっちゃカッコよう決めたるから」