※大学生のお話です。
生まれて初めて、お酒で記憶をなくしてしまった。
目が覚めると全然知らない部屋にいて、やたらと大きくてふかふかなベッドで眠っていた。おまけに、見たこともないような薄いクリーム色の生地のパジャマを着ている。
何がなんだか分からずに隣を見ると、同じように薄っぺらいパジャマを着た男が寝ていた。子供みたいに両手で掛け布団を抱きしめて、背中を向けて眠っている。すやすやと穏やかな寝息の音が聞こえてきた。
(……高尾くん?)
の頭の中はパニックになった。
隣で眠る黒髪の男は、確かに高尾和成だった。そして同時に、このやたらと大きなベッドのある部屋がラブホテルの一室であるこということにも気がつく。
一体どうしてこうなったのか。必死で記憶をたぐり寄せるが、何も覚えていない。代わりに、吐き気を伴うほどの酷い頭痛が襲ってきた。
(とりあえず、ここを出なきゃ……)
何気なくベッド脇のゴミ箱を見ると、丸めたティッシュが大量に捨ててあった。は悲鳴を上げそうになったが、高尾が起きる前にパジャマを脱ぎ捨て、ソファの辺りに散らばっている服を着た。
バッグを手繰り寄せてお財布を開けると、一万円札が2枚と千円札が1枚、そして小銭が少し入っていた。ラブホテルというものが一体いくらくらいするのか見当もつかなかったが、とりあえず彼が出られなくなったら困ると思い、2万円をテーブルの上に置いて、逃げるようにホテルを後にした。
***
家に帰って冷静になってみると、少しずつ昨夜の記憶がよみがえってきた。
確か、昨夜はゼミの飲み会で、大学の最寄り駅の居酒屋に入ったのだ。チェーン店にありがちな2時間の飲み放題コースで、料理やお酒が次々に出てきたところまでははっきり覚えている。
飲み会に参加したのは自分も含めて8人だった。その中にはもちろん高尾もいた。しかし彼はずっと隣の席の緑間と喋っていて、と会話をした記憶はほとんどない。緑間がおは朝占いのラッキーアイテムだというヒョウ柄のシャツを着ていることについて散々いじり倒した挙げ句、「飲み会にこーゆーの着てくる男ってどうよ?」とに聞いてきたことくらいだ。
おそらく、誰かが日本酒を頼んだあたりから、流れがおかしくなったのだろう。は今まで日本酒を飲んだことがなかったが、まるで水みたいだと思って眺めていた。すると、隣の席に座っていた同じクラスの男がちょっと飲んでみろよ、と勧めてきた。そこからの記憶が、全くないのだ。
その後、一体どうして高尾とラブホテルに行ってあんなことをしてしまったのか、何も思い出せない。高尾が誘ったのか、自分から誘ったのか。もしも自分からだとしたら、恥ずかしすぎる。高尾はノリはいいけれど、酔っぱらった女の子をどさくさに紛れてホテルに連れ込むようなひどい男には見えないから、その可能性は高い気がする。彼はゼミの中で一番話しやすくて人当たりが良く、密かにいいなと思っていたこともあった。だから、酔った勢いでつい変なことを言って迫ってしまったのかもしれない。
考えれば考えるほど、の頭痛は酷くなっていった。明日目が覚める前に地球がなくなっていて欲しいと願いながら、ベッドに入ってもう一度眠ることにした。
翌日、もちろん地球はなくなっていなかったので、仕方なく大学に行った。
高尾と顔を合わせるのが怖い。何を話せばいいか分からない。
確か今日は彼と被る講義は一つもなかったから、とりあえず一安心と思い、小さな教室の一番後ろに座った。講義が始まるまであと10分ある。前の方に緑間の姿が見えて少しどきっとしたが、何でもないふりをしてノートを開いた。
「おはよっ、ちゃん」
急に後ろから肩をポンと叩かれて、の心臓は止まりそうになった。振り返ると、斜め後ろに高尾が立っている。いつものような爽やかな笑顔で、手にはやたらと可愛いデザインの封筒を持っていた。
「お、おはよう高尾くん……」
顔がひきつるのを感じながら、できるだけ自然に返答した。
一体どうしてこんなところにいるのか。確か、今日は午後からしか来ないと言っていたはずなのに。
どんな顔をすればいいのか、何を言えばいいのか、全く見当がつかない。黙って俯いていると、高尾はの体を押すようにして、隣の席に無理矢理座ってきた。そして、耳元に口を寄せると、小声でこう囁いた。
「ちゃんさぁ、昨日オレのことベッドに置いて一人で帰っちゃっただろ。ちょっと、ひどくねー?」
「はあっ……!?」
の素っ頓狂な声が、教室中に響いた。少人数の講義なので幸い近くに人はいなかったが、一番前の席に座っている緑間が振り返っておもむろにこちらを見たので、慌てて口を押さえた。
高尾の口調はもちろん本気で怒っているのではなく、冗談混じりだったが、笑うことができない。「ベッド」という単語からあの朝の生々しい様子をはっきりと思い出して、は狼狽した。
「起きたら誰もいなくて、結構地味にヘコんだぜ? つーか、よく一人で帰れたよな」
「ご、ごめん……」
何がごめんなのかよく分からないままに謝ると、高尾は手に持っているピンク色の封筒を突きだしてきた。まるで何事もなかったように、いつもと同じ涼しげな顔をしている。
「はい、これ」
「え……?」
「2万だよ。あそこ、入るときに払っといたから。そもそもそんなに高くねーし」
ハート模様がたくさん描かれているやたらとファンシーなデザインのそれは、明らかに中学生くらいの妹からもらったものに見えた。現金をそのまま渡すのではなく、わざわざ気を遣ってこんなものに入れてくれたのだろうか。かえって目立ってしまうのに。
は、小声で説明する高尾を遮るように封筒を突き返した。
「……いらない」
「え、なんで?」
「お金はいらないから、全部忘れて欲しいの! ……私、何も覚えてないから」
喉から振り絞るような小声でそう囁くと、高尾はぽかんと口を開けた。
何も覚えていない、というの言葉が意外なのか、心底驚いているようだった。ぱちぱちと2、3度瞬きをして、こちらをじっと見ている。
「何もって……本当に、何も? 日本酒いっぱい飲んで、座敷席の隅っこの方で寝てたことも?」
「うん……」
「2次会のお店に行って、真ちゃんがカラオケ歌ってる横で踊ってたことも?」
「う、うん……」
「そのあと終電逃して、『高尾くんお願いだから帰らないで!』って抱きついてきたことも?」
「う……う」
次々と明らかになる真実に、は今すぐこの場から消えてしまいたくなった。
いくら初めて日本酒を飲んでしまったとはいえ、ゼミのみんなの前、そして密かにいいなと思っていた高尾の前でそんなことをしていたなんて。思い返すと死ぬほど恥ずかしかった。今すぐ、あの場にいた全員の記憶を消してしまいたい。
そんなことを考えながら熱くなった顔を両手で押さえて俯いていると、高尾は可笑しそうに笑った。
「ははっ、ごめんごめん……最後のは嘘。でもちゃん本当にめちゃくちゃ酔ってたから、どっかに泊まった方がいいと思ったんだよ。オレも終電なかったし」
「そうなの……?」
彼の言葉に、はほっと胸を撫で下ろした。どうやら、自分から強引に迫ったわけではなさそうだ。
しかし、どういう経緯であれ、酔った勢いで高尾と関係を持ってしまった事実に変わりはない。いくら意識がなかったとはいえ、尻の軽い女だと彼に思われてしまったのだと思うと、やはり恥ずかしくて情けなくて仕方なかった。
「……ちなみに、何もしてないからね? ちゃん部屋に入るとすぐトイレに駆け込んで、一時間以上出てこなかったんだから」
「えっ……!? でも、パジャマ着てたし……それに、その」
ゴミ箱いっぱいに捨てられた生々しいティッシュを思い出して、は赤面した。何もしていなければ、あれは何だったのだろう。
「それは、トイレから出てきたちゃんがいきなり服を脱ぎだしたから、慌てて着せたんだよ。それから水を飲ませようとしたら、全部テーブルにこぼしちゃうし……拭くの大変だったんだぜ?」
「そ、そうだったんだ……なんか、ごめん……」
「その後はすぐに爆睡してたしさ。とにかくオレは何もしてないから。そこまでひでぇ男じゃねーって」
高尾はもう一度封筒をの方へ押しつけると、席を立とうとした。そろそろ講義が始まる時間だ。
二人の間に何もなかった事はよく分かったが、の頭の中はもやもやしたままだった。気分はちっとも晴れない。これでは、彼の記憶の中にただの迷惑な酔っぱらいの女として刻み込まれてしまう。
気がつけば、教室を出ようとする高尾の服の袖を掴んで引き止めていた。
「あの……高尾くん、迷惑かけて本当にごめんね。今度何かお詫びするから」
「マジで? じゃあオレ、ちゃんとデートしたいんだけど」
お昼か何かを奢るつもりでいたのに、高尾が急に真剣な顔になったので、は顔が熱くなった。予想外の反応だ。
もう講義が始まるというのに、後ろの方でぼそぼそといつまでも小声のやりとりをしていると、一番前に座っていた緑間が突然立ち上がった。眼鏡を押さえながら、こちらに向かって近づいてくる。
「……お前たち、さっきからこそこそと何なのだよ! 講義が始まるのだから、いちゃつくなら外でやれ。それに、金がどうこう聞こえてきたが、高尾は飲み代をに借りたのか?」
完全に誤解している緑間に、はぽかんと口を開けた。
まるで中学時代の学級委員長のように眼鏡のブリッジを指先で押し上げているその姿に、高尾はぶっと吹き出しそうになって笑いをこらえている。
「違うって真ちゃん、これは飲み代じゃなくて、ホテル代……」
「高尾くん!!」
の声が、再び教室中に響いた。
どうしても思い出せなかった空白の一夜の謎はあっけなく解けたのに、いつまでも恥ずかしさだけが残っていた。もう二度と、あんなにお酒なんか飲まないし、何があったのかを忘れたりはしない。
高尾とこっそり次に会う約束をしてから別れると、は一体何があったのかと尋ねてくる緑間に言葉を濁しながら、席についてノートに視線を落とした。
空白の一夜
2015.05.06 「どうする」様へ提出
by 玲奈